かあさん頑張る
くったりして目覚めるが、今日は午前中にしなくてはならない仕事が。電車のクーラーの風がびゅうびゅうあたってしんどかった。風が出なくて涼しくなる方法ってないかしらねえ。昼頃には大分復活。
■今日のおべんとう
豚肉と茄子の味噌炒め/酢じょうゆ卵(めんつゆプラスパージョン)/シメジと人参のサラダ
■うかつに語れない「教育」
こんな記事を発見して、考え込んでしまった。
「毎日かあさん」論争、表現の自由か教育的配慮か(読売新聞)
毎日かあさんの問題の回は見てないし(載ってるか不明だが単行本2を注文した)、この記事だけでは判断できないところもあるなと。ただ、一番に思ったのは、うかつに学校やら教育のことをかけない世の中になってんのか、てなことでした。
また、学校側としては「とにかく、もう、やめてくださーい」的な感じを受けた。「影響が考慮されることはすべて排除」っていうのはアチコチで行われているけど、すごくヒステリックな気がする。その「五大バカ」といわれた親からクレームがあったから担任はサイバラを学校に呼んだのか、そのあたりは不明だが、むしろ親とサイバラの間での問題がメインではなく、授業参観の際に子供を統率できなかった担任、ひいては学校がネタにされるのが問題だったのではと思う。プライドを傷つけられた教員たちの。んで「教育的配慮」ってネタにされた子供が傷つくってことより、明らかに親に対する配慮じゃないのかなあ。
しかし、自分を振り返って、クラスに五大だか三大だか七大だかの「バカ」なんて、いつもいたと思う*1。自分がその「バカ」に入っていた時期もあったし(笑)。その「バカ」が大人になったら、あの時のバカっぷりはなんだったの?ってなぐあいにおとなしく知的になったるするもんだが(自分はさておき・・・)。その回のマンガを読んでないにしても、そういう暖かい目でサイバラが描いたんだろうなあってのは想像がつく。
なんか、たくさん要素があって、話がとっちらかっているが*2。最近「教育」って宗教やら政治みたいにある場では話題としてタブーなんではないか、と思うようになっていた。「子供がいないヒト・当事者じゃないと語るな」的な部分は元々あるけど、同じ子供を持つもの同士や教育現場の人間でも他者に意見を挟めない・挟ませない雰囲気を感じる。結果としてものすごくナイーブになり、薄いグレーも黒く見えていることにしちゃおうと「影響が考慮されることはすべて排除」的な発想もでてくるのかと。うーん。