さよなら、ありがとう

jochang2004-10-12

Niftyのとあるフォーラムがなくなる。情報はビートルズ系から入ってきたのだが、同じ大枠のスピッツ部屋もなくなると。
ComNif(通信ソフト)の使用をやめ、インターウェイからつなぐのがめんどくさくなり、ついログインパスワードを忘れてしまったことから、足が遠のいていた会議室。一時はアクティブなPatioなどもあったから頻繁にのぞいていたけれども、もう2年近く読み書きしていない。15日からリードオンリー、ほどなくログもなくなるようだが、最後の時が見れないのは、複雑な心境だ(たぶん、今からパスを請求しても、郵送なので間に合わないだろう)。
スピッツ部屋に足を踏み入れたのは、1997年、夏頃だったかな。その翌年の年明けに大阪で行われたいわゆるオフ会に参加した。そして、11月に初めてのセッション参加。そこからはドトーのように・・・詳しくは<こちらをご覧頂ければ、と。
オフ会に没頭(笑)していたころは、本当にアホだった。セッションの反省会@西荻窪だの、楽器を買うためだけのオフ@お茶の水だの、手羽先を食べる会@名古屋だの、牛タンセッション@仙台だの、合宿オフ@長野だの(いずれも大阪在住中である)。東京在住者が一人もいない池袋オフとかもあったなあ。関西でも三都タワーツアー、讃岐うどんツアー、新年凧あげ会、黒門市場食材による忘年鍋会、謎のギター結社・・・かぞえきれん。
そして、スピッツ部屋とビートルズ部屋は微妙に、いや結構繋がっている。今、日常的に呑んだりしている人はビートルズ部屋のヒトが主だけれども、スピッツ部屋がなければ、出会わなかった。「もしも・・こうだったら」という仮定はなんだけども、大きな確率で、今あたしは東京にいなかっただろうし、「ぷりぱろあき」も存在しなかったはずだ。それどころか、ビートルズ自体もそんなに知らずに生きていただろうなあ。さて、どんな人生を送っていたやら。
当時24歳、多分そこがあたしにとって大きな分岐点だったんだろう。そんな分岐点の要素がスピ部屋だったと。ひとつひとつのことを決めてきたのは自分だけれども、スピ部屋とそこから繋がったものに大きな影響があったのは確かだ。

【今日の写真】
あやしいものではありません。ウチの顧問が菜園をやっており、何度もバジルをくれるのだ。今日ももらって、一大奮起してネットを検索、バジルペーストをつくってみた。うーん、、、今一歩・・・
と、今日は実は携帯を機種変更しました。画素はすごくよくなったけど、重いので、6Kにしたらあんまり変わらん。